法華経の教えに触れ、乾いた心に潤いを。

縁起

領善寺の始まりと御守護神


略縁起

領善寺略縁起

昭和25年12月の末ごろ、大阪の額田ぬかたという所で厳しい修行をした永野真誠というお坊さんが、頼まれて弓削のある家でお経を上げていたところ、不思議な霊感を覚えました。七堂伽藍の大きなお寺院と共に白鬚しらひげの威厳ある老人が現れ、「当地に葬られている無縁の武士たちに供養をしなさい」と言う。このことを聞いた弓削の住人で山中康司という人が「もし永野師の言葉が本当ならばお堂を建てよう」と決意し、翌年正月元日より21日間の断食修行に入った。そして、満願の日に朱のひつぎを発掘した。永野師の霊感に現れた白鬚の老人のものと確信し、以来寝食を忘れて堂宇の建立に奔走、幾人かの協力を得て小さなお堂を建てた。これが領善寺の始まりである。

歴史をさかのぼってみれば、この弓削という所は、その昔聖徳太子の経塚八箇所の一つで、天台宗の向陽山瑞光寺という大きなお寺があったところである。このお寺は応仁元年12月20日夜半の出火にことごとく焼けてしまった。その頃応仁の乱の戦禍が弓削にも及び、出雲国の守護職三澤信濃守一族六百八十余名ほか多くの武士が当地で戦死した。

時代が下って江戸初期の頃、弓削の領主京極伊織公は剃髪し再建された釈迦堂に入道、法華経を読誦し無縁武士の菩提を弔った。京極伊織公は、学徳の誉れ高く徳川三代将軍家光に近侍として仕えた人で延宝八年三月十一日に入寂された。法号を領善院殿梅林日道居士という。山中氏が満願の日に掘り起こした朱の棺はこの方のものである。さだめし領善院様はこ此の地に法華経が弘まることを願われ入寂されたと思われる。

領善寺が今日あるは、領善院様のご守護と永野師の霊感と山中氏の艱難辛苦が合力し諸天善神の冥護があってこそのものである。


領善寺ー昭和30年代

昭和三十年五月二日
領善堂として開堂供養

昭和四十年五月三日
瑞光山領善寺として寺号公称

京極家のこと

領善寺略縁起
京極高昌(伊織)先祖書
(京極高正襲蔵)
京極氏について

京極氏きょうごくしの源流である佐々木氏は、鎌倉時代以前より近江(安土)にあり、近江源おうみげんとも称された家系である。鎌倉時代に近江他数ヶ国の守護しゅごに任じられていた佐々木ささき信綱のぶつなは、4人の息子に近江を分けて継がせた。このうち、江北こうほく北近江きたおうみにある高島郡たかしまぐん伊香郡いがぐん浅井郡あさいぐん坂田郡さかたぐん、犬上郡、愛智郡えちぐんの6郡と京都の京極きょうごく高辻たかつじの館を継いだ四男のうじのぶを祖とする一族が後に京極きょうごくと呼ばれるようになる。

応仁の乱の後は家督争かとくあらそいや浅井氏あさいしの台頭により衰退したが、京極きょうごく高次たかつぐ高知たかとも兄弟が戦国時代に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えて家を再興し、ざま大名だいみょうとして若狭わかさ国主こくしゅ丹後たんご国主こくしゅとなった。各家ともに分封ぶんぽう転封てんぷう改易かいえきはあったが、ともに明治維新を迎え、華族かぞく(貴族)に列せられた。

京極きょうごく高昌たかまさ(伊おり)について

京極高昌(伊織)はりょう善院ぜんいん殿でん梅林ばいりんにちどうそんとし領善寺の御守護ごしゅごじんとして祀られている。応仁の乱の後、京極家を再興した京極高知の養子・高通たかみちの次男として生まれ高通亡き後は長男・高供たかとも家督かとくぎ、分家として近江おうみこく蒲生郡がもうぐん弓削ゆげ(現在の竜王町りゅうおうちょう弓削ゆげ)を与えられ、この地の領主となる。

京極高昌(伊織)は善政を敷き領主と村人の関係はただの作人と地主・年貢の単なる係りというのではなく、その土地の伝統や習俗ともに深く深く繋がり、人々に親しまれ愛された人物だったと文献に記されている。

その事がよくうかがい知れるのは戒名かいみょうにある領善の字だ。(領)の字は集めると言う意味がある、つまり善きものを集めるという意味だ、善政を敷く人々に愛されたからこそ善きものが集まり領地が豊に繁栄した結果の戒名であると拝察する。

もともと弓削の地にあった天台宗の向陽山こうようざん瑞光寺ずいこうじと言う七堂しちどう伽藍がらんの大きな寺は、応仁の乱で灰燼かいじんに帰したが後に釈迦堂しゃかどうが再建され、そこで京極高昌(伊織)は入道にゅうどう(仏道に入る・出家)され法華経を読誦どくじゅし、お題目(南無妙法蓮華経)を唱えられた。その不思議なる法華経のご縁を頂き、京極高昌(伊織)は当山で御守護神とあが勧請かんじょう・ご供養させて頂いている。

また当山は向陽山瑞光寺の(瑞光)の二文字を山号さんごうに仰ぎ、御守護神(領善)の二文字を頂き、瑞光山ずいこうざんりょう善寺ぜんじごうしている。